特集:新型リーフに見る日産EVのDNA
特集:新型リーフに見る日産EVのDNA
特集:新型リーフに見る日産EVのDNA
電気自動車はもはや特別なクルマではない。「リーフ」は世界初の量産電気自動車(登録車)として2010年に発売されて以来、15年間でグローバルに約70万台を販売し、その推定累計走行距離は約280億kmという。「リーフ」によって世界の電気自動車を取り巻く環境は大きく変化したことは明らかであるが、日産が常に時代をリードし、業界を牽引してきた理由はどこにあるのか。今号では日産の電気自動車の祖「たま」と本誌では初登場となる「チェリー電気トラック」、「FEV」を通して日産の電気自動車の歴史からその秘密に迫りたい。
電気自動車はもはや特別なクルマではない。「リーフ」は世界初の量産電気自動車(登録車)として2010年に発売されて以来、15年間でグローバルに約70万台を販売し、その推定累計走行距離は約280億kmという。「リーフ」によって世界の電気自動車を取り巻く環境は大きく変化したことは明らかであるが、日産が常に時代をリードし、業界を牽引してきた理由はどこにあるのか。今号では日産の電気自動車の祖「たま」と本誌では初登場となる「チェリー電気トラック」、「FEV」を通して日産の電気自動車の歴史からその秘密に迫りたい。
電気自動車はもはや特別なクルマではない。「リーフ」は世界初の量産電気自動車(登録車)として2010年に発売されて以来、15年間でグローバルに約70万台を販売し、その推定累計走行距離は約280億kmという。「リーフ」によって世界の電気自動車を取り巻く環境は大きく変化したことは明らかであるが、日産が常に時代をリードし、業界を牽引してきた理由はどこにあるのか。今号では日産の電気自動車の祖「たま」と本誌では初登場となる「チェリー電気トラック」、「FEV」を通して日産の電気自動車の歴史からその秘密に迫りたい。
電気自動車「たま」の誕生
日産は常に時代をリードしてきたが、それは電気自動車においても同じだ。日産の電気自動車の歴史は長く、その歴史はおよそ80年前の1947年に発売された「たま」まで遡る。「たま」は後のプリンス自動車工業となる、戦前まで飛行機を生産していた立川飛行機から派生した東京電気自動車が鉛バッテリーを使用して第一号として開発した電気自動車である。
日産は常に時代をリードしてきたが、それは電気自動車においても同じだ。日産の電気自動車の歴史は長く、その歴史はおよそ80年前の1947年に発売された「たま」まで遡る。「たま」は後のプリンス自動車工業となる、戦前まで飛行機を生産していた立川飛行機から派生した東京電気自動車が鉛バッテリーを使用して第一号として開発した電気自動車である。
日産は常に時代をリードしてきたが、それは電気自動車においても同じだ。日産の電気自動車の歴史は長く、その歴史はおよそ80年前の1947年に発売された「たま」まで遡る。「たま」は後のプリンス自動車工業となる、戦前まで飛行機を生産していた立川飛行機から派生した東京電気自動車が鉛バッテリーを使用して第一号として開発した電気自動車である。
たま電気自動車(1947年)
たま電気自動車(1947年)
たま電気自動車(1947年)
戦後、あらゆる生産機構は壊滅状態となり、海外からの物資も底をついていた。自給体制の悪化から来る生活物資の極度の欠乏に加え、輸送機関の不足も復興への大きな妨げとなっていたのだ。昭和22年(1947年)の日本自動車年鑑によると、昭和21年(1946年)8月の実働可能な自動車は、昭和15年(1940年)を100%とした場合、貨物自動車46%、乗合自動車35%、乗用車18%であり、連合軍は昭和20年(1945年)9月、日本政府に対して資材割り当ての範囲内でまずトラックの製造を許可することとした。
立川飛行機では広大な建物と約2500名の人員を生かす道は自動車産業が最適と考えていた。生産活動も少なかったことから余っていた電力に注目し、電気自動車500台、ガソリン自動車500台、合計1000台/年の生産計画を立てた。そして当時、立川飛行機傘下にあった高速機関工業と名称を変えていた旧オオタ自動車のボディを下請けしながら、自動車の勉強を始めることになった。
立川飛行機は飛行機メーカーとして当然、機体設計のノウハウはあったが、動力関係についてはその製造能力がなかった。そこで、モーターを日立製作所及び神鋼電機、バッテリーを湯浅電池へ依頼。昭和21年(1946年)11月、初めて自らの手で開発したオオタ号トラックのフレームの隙間にバッテリーを配置した木骨鋼板ボディを架装した試作電気自動車「E0T-46B」を2台完成させた。
試作電気自動車「E0T-46B」を用いて電気自動車における各種の試験方法の開発、性能試験、制御性等、生産車の開発に必要な基礎データの収集を行い、いよいよ生産車を新設計することになった。ガバナ(制御装置)による弱めの界磁方式電動機の採用や、フレームの真ん中を切断してカセット式のバッテリーボックスを左右から引き出すことで充電済のバッテリーと簡単に交換できる方式、ボンネットが前開きのボディ、フェンダーへのはめ込み式ヘッドランプ、木骨鋼板ボディを架装した前開き2ドア、前窓は1枚平面ガラス等、機能とスタイルの向上を図った。車名は従業員より募集して土地名に由来する「たま」に決定し、立川飛行機初の生産用電気自動車として、昭和22年(1947年)4月にトラック「E0T-47」、同年5月に乗用車「E4S-47」を相次いで発表。同年8月には日比谷野外音楽堂で展示会が開催された。
戦後、あらゆる生産機構は壊滅状態となり、海外からの物資も底をついていた。自給体制の悪化から来る生活物資の極度の欠乏に加え、輸送機関の不足も復興への大きな妨げとなっていたのだ。昭和22年(1947年)の日本自動車年鑑によると、昭和21年(1946年)8月の実働可能な自動車は、昭和15年(1940年)を100%とした場合、貨物自動車46%、乗合自動車35%、乗用車18%であり、連合軍は昭和20年(1945年)9月、日本政府に対して資材割り当ての範囲内でまずトラックの製造を許可することとした。
立川飛行機では広大な建物と約2500名の人員を生かす道は自動車産業が最適と考えていた。生産活動も少なかったことから余っていた電力に注目し、電気自動車500台、ガソリン自動車500台、合計1000台/年の生産計画を立てた。そして当時、立川飛行機傘下にあった高速機関工業と名称を変えていた旧オオタ自動車のボディを下請けしながら、自動車の勉強を始めることになった。
立川飛行機は飛行機メーカーとして当然、機体設計のノウハウはあったが、動力関係についてはその製造能力がなかった。そこで、モーターを日立製作所及び神鋼電機、バッテリーを湯浅電池へ依頼。昭和21年(1946年)11月、初めて自らの手で開発したオオタ号トラックのフレームの隙間にバッテリーを配置した木骨鋼板ボディを架装した試作電気自動車「E0T-46B」を2台完成させた。
試作電気自動車「E0T-46B」を用いて電気自動車における各種の試験方法の開発、性能試験、制御性等、生産車の開発に必要な基礎データの収集を行い、いよいよ生産車を新設計することになった。ガバナ(制御装置)による弱めの界磁方式電動機の採用や、フレームの真ん中を切断してカセット式のバッテリーボックスを左右から引き出すことで充電済のバッテリーと簡単に交換できる方式、ボンネットが前開きのボディ、フェンダーへのはめ込み式ヘッドランプ、木骨鋼板ボディを架装した前開き2ドア、前窓は1枚平面ガラス等、機能とスタイルの向上を図った。車名は従業員より募集して土地名に由来する「たま」に決定し、立川飛行機初の生産用電気自動車として、昭和22年(1947年)4月にトラック「E0T-47」、同年5月に乗用車「E4S-47」を相次いで発表。同年8月には日比谷野外音楽堂で展示会が開催された。
戦後、あらゆる生産機構は壊滅状態となり、海外からの物資も底をついていた。自給体制の悪化から来る生活物資の極度の欠乏に加え、輸送機関の不足も復興への大きな妨げとなっていたのだ。昭和22年(1947年)の日本自動車年鑑によると、昭和21年(1946年)8月の実働可能な自動車は、昭和15年(1940年)を100%とした場合、貨物自動車46%、乗合自動車35%、乗用車18%であり、連合軍は昭和20年(1945年)9月、日本政府に対して資材割り当ての範囲内でまずトラックの製造を許可することとした。
立川飛行機では広大な建物と約2500名の人員を生かす道は自動車産業が最適と考えていた。生産活動も少なかったことから余っていた電力に注目し、電気自動車500台、ガソリン自動車500台、合計1000台/年の生産計画を立てた。そして当時、立川飛行機傘下にあった高速機関工業と名称を変えていた旧オオタ自動車のボディを下請けしながら、自動車の勉強を始めることになった。
立川飛行機は飛行機メーカーとして当然、機体設計のノウハウはあったが、動力関係についてはその製造能力がなかった。そこで、モーターを日立製作所及び神鋼電機、バッテリーを湯浅電池へ依頼。昭和21年(1946年)11月、初めて自らの手で開発したオオタ号トラックのフレームの隙間にバッテリーを配置した木骨鋼板ボディを架装した試作電気自動車「E0T-46B」を2台完成させた。
試作電気自動車「E0T-46B」を用いて電気自動車における各種の試験方法の開発、性能試験、制御性等、生産車の開発に必要な基礎データの収集を行い、いよいよ生産車を新設計することになった。ガバナ(制御装置)による弱めの界磁方式電動機の採用や、フレームの真ん中を切断してカセット式のバッテリーボックスを左右から引き出すことで充電済のバッテリーと簡単に交換できる方式、ボンネットが前開きのボディ、フェンダーへのはめ込み式ヘッドランプ、木骨鋼板ボディを架装した前開き2ドア、前窓は1枚平面ガラス等、機能とスタイルの向上を図った。車名は従業員より募集して土地名に由来する「たま」に決定し、立川飛行機初の生産用電気自動車として、昭和22年(1947年)4月にトラック「E0T-47」、同年5月に乗用車「E4S-47」を相次いで発表。同年8月には日比谷野外音楽堂で展示会が開催された。
E0T-47(1947年)
E0T-47(1947年)
E0T-47(1947年)
E4S-47(1947年)
E4S-47(1947年)
E4S-47(1947年)
なお、昭和21年(1946年)11月、立川工場全体が米軍によって接収され、米国特需関係以外の仕事が出来なくなってしまった。そこで約200名が米国特需の仕事から離れた新会社で自動車を作ることを決意。戦時中はグライダーを制作していた府中町にあった土地2200坪、木造建物2000坪の遊休工場を借り、わずかな資材と共に移っている。工場は「雨が降れば傘をさして仕事をした」というほどにボロボロであったが、そんな厳しい環境の中でも新たな夢に将来を託した200名の団結は固かったという。昭和22年(1947年)6月に資本金19万5000円で「東京電気自動車」が創立している。
なお、昭和21年(1946年)11月、立川工場全体が米軍によって接収され、米国特需関係以外の仕事が出来なくなってしまった。そこで約200名が米国特需の仕事から離れた新会社で自動車を作ることを決意。戦時中はグライダーを制作していた府中町にあった土地2200坪、木造建物2000坪の遊休工場を借り、わずかな資材と共に移っている。工場は「雨が降れば傘をさして仕事をした」というほどにボロボロであったが、そんな厳しい環境の中でも新たな夢に将来を託した200名の団結は固かったという。昭和22年(1947年)6月に資本金19万5000円で「東京電気自動車」が創立している。
なお、昭和21年(1946年)11月、立川工場全体が米軍によって接収され、米国特需関係以外の仕事が出来なくなってしまった。そこで約200名が米国特需の仕事から離れた新会社で自動車を作ることを決意。戦時中はグライダーを制作していた府中町にあった土地2200坪、木造建物2000坪の遊休工場を借り、わずかな資材と共に移っている。工場は「雨が降れば傘をさして仕事をした」というほどにボロボロであったが、そんな厳しい環境の中でも新たな夢に将来を託した200名の団結は固かったという。昭和22年(1947年)6月に資本金19万5000円で「東京電気自動車」が創立している。
東京電気自動車の外観
東京電気自動車の外観
東京電気自動車の外観
東京電気自動車 府中工場の様子
東京電気自動車 府中工場の様子
東京電気自動車 府中工場の様子

