特集:NISMO40周年記念日産モータースポーツの役割と使命
特集:NISMO40周年記念日産モータースポーツの役割と使命
特集:NISMO40周年記念日産モータースポーツの役割と使命
1936年6月7日に開催された多摩川スピードウェイでの「第1回全国自動車競走大会」からスタートした日産のモータースポーツ。ニッサンクラブライフではこれまで数々の日産の挑戦とその輝かしい功績を歴史と共に紹介してきたが、今号ではニスモ設立40周年を記念し、日産・ニスモのモータースポーツの真髄を、日産・ニスモと長らく共闘してきたレジェンドドライバーである長谷見昌弘さん、星野一義さんに加え、日産自動車およびニスモ両面から日産のモータースポーツに携わられてきた柿元邦彦さん、現役GTドライバーである高星明誠選手、日置和夫本誌編集長に語っていただく。
日産・ニスモが日本、そして世界のモータースポーツにおいてどのような役割を果たしてきたか。また、今後果たしていくべきことを考えたい。
1936年6月7日に開催された多摩川スピードウェイでの「第1回全国自動車競走大会」からスタートした日産のモータースポーツ。ニッサンクラブライフではこれまで数々の日産の挑戦とその輝かしい功績を歴史と共に紹介してきたが、今号ではニスモ設立40周年を記念し、日産・ニスモのモータースポーツの真髄を、日産・ニスモと長らく共闘してきたレジェンドドライバーである長谷見昌弘さん、星野一義さんに加え、日産自動車およびニスモ両面から日産のモータースポーツに携わられてきた柿元邦彦さん、現役GTドライバーである高星明誠選手、日置和夫本誌編集長に語っていただく。
日産・ニスモが日本、そして世界のモータースポーツにおいてどのような役割を果たしてきたか。また、今後果たしていくべきことを考えたい。
1936年6月7日に開催された多摩川スピードウェイでの「第1回全国自動車競走大会」からスタートした日産のモータースポーツ。ニッサンクラブライフではこれまで数々の日産の挑戦とその輝かしい功績を歴史と共に紹介してきたが、今号ではニスモ設立40周年を記念し、日産・ニスモのモータースポーツの真髄を、日産・ニスモと長らく共闘してきたレジェンドドライバーである長谷見昌弘さん、星野一義さんに加え、日産自動車およびニスモ両面から日産のモータースポーツに携わられてきた柿元邦彦さん、現役GTドライバーである高星明誠選手、日置和夫本誌編集長に語っていただく。
日産・ニスモが日本、そして世界のモータースポーツにおいてどのような役割を果たしてきたか。また、今後果たしていくべきことを考えたい。
日産モータースポーツの根底にあるもの
ニッサンクラブライフ編集室(以下、「CL」と表記):みなさま、ようこそお集まりいただきました。1984年のニスモ設立40周年を記念し、本日は日産、ニスモのモータースポーツについて語っていただければと考えております。
日置和夫本誌編集長(以下、「日置」と表記):クラブライフ読者の方々ならご存知かと思いますが、日産のモータースポーツの歴史は長く、多摩川スピードウェイでの「第1回全国自動車競走大会」まで遡ります。
ニッサンクラブライフ編集室(以下、「CL」と表記):みなさま、ようこそお集まりいただきました。1984年のニスモ設立40周年を記念し、本日は日産、ニスモのモータースポーツについて語っていただければと考えております。
日置和夫本誌編集長(以下、「日置」と表記):クラブライフ読者の方々ならご存知かと思いますが、日産のモータースポーツの歴史は長く、多摩川スピードウェイでの「第1回全国自動車競走大会」まで遡ります。
ニッサンクラブライフ編集室(以下、「CL」と表記):みなさま、ようこそお集まりいただきました。1984年のニスモ設立40周年を記念し、本日は日産、ニスモのモータースポーツについて語っていただければと考えております。
日置和夫本誌編集長(以下、「日置」と表記):クラブライフ読者の方々ならご存知かと思いますが、日産のモータースポーツの歴史は長く、多摩川スピードウェイでの「第1回全国自動車競走大会」まで遡ります。
CL:大会の宣伝を片山豊さんが担われて。第1回大会では日産はオオタに惨敗して、鮎川義介が第2回大会での優勝を厳命し、無事に勝利を収めたというレースですね。クラブライフ199号でも紹介しました。
柿元邦彦氏(以下、「柿元」と表記):本格的な日産のモータースポーツ活動は、史上最も過酷なレースと呼ばれる1958年の「豪州一周 10,100マイル モービル・ガス・トライアル(通称・豪州ラリー)」となりますが、日産にとって、ここでのクラス優勝が大きかったと思います。当時は丁度、ダットサン210型を輸出した頃で、壊れないことがクルマの価値の一つであったから、世界にダットサンの耐久性を見事に示したことになりました。
CL:大会の宣伝を片山豊さんが担われて。第1回大会では日産はオオタに惨敗して、鮎川義介が第2回大会での優勝を厳命し、無事に勝利を収めたというレースですね。クラブライフ199号でも紹介しました。
柿元邦彦氏(以下、「柿元」と表記):本格的な日産のモータースポーツ活動は、史上最も過酷なレースと呼ばれる1958年の「豪州一周 10,100マイル モービル・ガス・トライアル(通称・豪州ラリー)」となりますが、日産にとって、ここでのクラス優勝が大きかったと思います。当時は丁度、ダットサン210型を輸出した頃で、壊れないことがクルマの価値の一つであったから、世界にダットサンの耐久性を見事に示したことになりました。
CL:大会の宣伝を片山豊さんが担われて。第1回大会では日産はオオタに惨敗して、鮎川義介が第2回大会での優勝を厳命し、無事に勝利を収めたというレースですね。クラブライフ199号でも紹介しました。
柿元邦彦氏(以下、「柿元」と表記):本格的な日産のモータースポーツ活動は、史上最も過酷なレースと呼ばれる1958年の「豪州一周 10,100マイル モービル・ガス・トライアル(通称・豪州ラリー)」となりますが、日産にとって、ここでのクラス優勝が大きかったと思います。当時は丁度、ダットサン210型を輸出した頃で、壊れないことがクルマの価値の一つであったから、世界にダットサンの耐久性を見事に示したことになりました。
日置:日産のクルマが信頼に値するということですね。フジ号、サクラ号共に完走を果たしましたし、サクラ号はクラス4位と共にフェアプレー賞にも輝き、ダットサンのクルマ、そして人間性においても信頼を得たのではないでしょうか。
柿元:そうですね。会社としてはこの勝利によって輸出に弾みがついた訳です。そして、フジ号のドライバーである難波(靖治)さんは、「やはりレースには勝たなければならない」という思いを強くしたのだと思います。
日置:日産のクルマが信頼に値するということですね。フジ号、サクラ号共に完走を果たしましたし、サクラ号はクラス4位と共にフェアプレー賞にも輝き、ダットサンのクルマ、そして人間性においても信頼を得たのではないでしょうか。
柿元:そうですね。会社としてはこの勝利によって輸出に弾みがついた訳です。そして、フジ号のドライバーである難波(靖治)さんは、「やはりレースには勝たなければならない」という思いを強くしたのだと思います。
日置:日産のクルマが信頼に値するということですね。フジ号、サクラ号共に完走を果たしましたし、サクラ号はクラス4位と共にフェアプレー賞にも輝き、ダットサンのクルマ、そして人間性においても信頼を得たのではないでしょうか。
柿元:そうですね。会社としてはこの勝利によって輸出に弾みがついた訳です。そして、フジ号のドライバーである難波(靖治)さんは、「やはりレースには勝たなければならない」という思いを強くしたのだと思います。
CL:ニスモの社長室にあった「強いニスモ、勝つニスモ」はそこから来ているのでしょうか。
柿元:初代ニスモ社長に就いた難波さんの思想そのものだと思います。「強さ」そして「勝ち」が大事だと難波さんは考えていた。だからこそ「強いニスモ、勝つニスモ」を掲げていたのだと思います。
CL:ニスモは日産本体としてはどういう位置づけだったのでしょうか。
柿元:ニスモが設立される以前、日産とプリンスが合併した前後から、レース関連の部署はプリンス系の村山地区と日産系の追浜がワークス活動で別々にあり、大森にもプライベーターの国内レースのサポートを主体とした部署がある状況でした。中でも追浜部隊には社内の政治的な部分も含めて力がありました。
CL:ニスモの社長室にあった「強いニスモ、勝つニスモ」はそこから来ているのでしょうか。
柿元:初代ニスモ社長に就いた難波さんの思想そのものだと思います。「強さ」そして「勝ち」が大事だと難波さんは考えていた。だからこそ「強いニスモ、勝つニスモ」を掲げていたのだと思います。
CL:ニスモは日産本体としてはどういう位置づけだったのでしょうか。
柿元:ニスモが設立される以前、日産とプリンスが合併した前後から、レース関連の部署はプリンス系の村山地区と日産系の追浜がワークス活動で別々にあり、大森にもプライベーターの国内レースのサポートを主体とした部署がある状況でした。中でも追浜部隊には社内の政治的な部分も含めて力がありました。
CL:ニスモの社長室にあった「強いニスモ、勝つニスモ」はそこから来ているのでしょうか。
柿元:初代ニスモ社長に就いた難波さんの思想そのものだと思います。「強さ」そして「勝ち」が大事だと難波さんは考えていた。だからこそ「強いニスモ、勝つニスモ」を掲げていたのだと思います。
CL:ニスモは日産本体としてはどういう位置づけだったのでしょうか。
柿元:ニスモが設立される以前、日産とプリンスが合併した前後から、レース関連の部署はプリンス系の村山地区と日産系の追浜がワークス活動で別々にあり、大森にもプライベーターの国内レースのサポートを主体とした部署がある状況でした。中でも追浜部隊には社内の政治的な部分も含めて力がありました。
日置:当時は世界ラリー選手権、モンテカルロやサファリなど国際ラリーで日産は活躍していましたね。
柿元:1982年にはサファリで日産が四連覇をしましたが、帰国した際、モータースポーツを担当されていた難波さん、桜井(眞一郎)さんは、「これからは国内レースにも力を入れたいし、ル・マンもいいな」と考えたそうです。そしてそこから約1年半後にニスモができました。「壊れないクルマ」に価値があった時代から、モータースポーツの在り方自体を変えようという時代でした。
日置:当時は世界ラリー選手権、モンテカルロやサファリなど国際ラリーで日産は活躍していましたね。
柿元:1982年にはサファリで日産が四連覇をしましたが、帰国した際、モータースポーツを担当されていた難波さん、桜井(眞一郎)さんは、「これからは国内レースにも力を入れたいし、ル・マンもいいな」と考えたそうです。そしてそこから約1年半後にニスモができました。「壊れないクルマ」に価値があった時代から、モータースポーツの在り方自体を変えようという時代でした。
日置:当時は世界ラリー選手権、モンテカルロやサファリなど国際ラリーで日産は活躍していましたね。
柿元:1982年にはサファリで日産が四連覇をしましたが、帰国した際、モータースポーツを担当されていた難波さん、桜井(眞一郎)さんは、「これからは国内レースにも力を入れたいし、ル・マンもいいな」と考えたそうです。そしてそこから約1年半後にニスモができました。「壊れないクルマ」に価値があった時代から、モータースポーツの在り方自体を変えようという時代でした。
CL:敢えてニスモとして分社化した理由はあるのでしょうか。
柿元:一つはモータースポーツには危険が伴うわけです。ドライバーが怪我をするなど非常に危険なことが起きる部署であるため、思い切ってやるためには、分社化をしてリスク管理をする意味がありました。もう一つは、モータースポーツ好きの方々、アフターマーケットに様々な部品を供給しやすくするという意味もありました。
CL:確かに部品によっては自動車メーカーとしては出しにくいものもありますよね。
柿元:分社化すればそれが可能になります。そして、プリンス、追浜、大森とバラバラだった日産のモータースポーツが、ニスモがあることによって徐々にまとまっていき、大きな目標として「24時間レース出場」が掲げられました。ル・マン用のエンジン開発は追浜でも別部隊が担当し、荻窪、村山の長であった桜井さんもル・マン計画を推進するために加わり、日産が全社一丸になっていました。
CL:1990年代半ばくらいまでは、社内にまだ「プリンスの人、日産の人」という雰囲気も残っていたと思うのですが、モータースポーツに至っては10年以上前にそんな意識はなくなっていたのですね。
柿元:それに、経営トップが関心を持ってくれいて、当時は久米(豊)さんが社長でしたが、予算オーバーも何とかしてもらうといった応援があったことも大きいと思います。
CL:敢えてニスモとして分社化した理由はあるのでしょうか。
柿元:一つはモータースポーツには危険が伴うわけです。ドライバーが怪我をするなど非常に危険なことが起きる部署であるため、思い切ってやるためには、分社化をしてリスク管理をする意味がありました。もう一つは、モータースポーツ好きの方々、アフターマーケットに様々な部品を供給しやすくするという意味もありました。
CL:確かに部品によっては自動車メーカーとしては出しにくいものもありますよね。
柿元:分社化すればそれが可能になります。そして、プリンス、追浜、大森とバラバラだった日産のモータースポーツが、ニスモがあることによって徐々にまとまっていき、大きな目標として「24時間レース出場」が掲げられました。ル・マン用のエンジン開発は追浜でも別部隊が担当し、荻窪、村山の長であった桜井さんもル・マン計画を推進するために加わり、日産が全社一丸になっていました。
CL:1990年代半ばくらいまでは、社内にまだ「プリンスの人、日産の人」という雰囲気も残っていたと思うのですが、モータースポーツに至っては10年以上前にそんな意識はなくなっていたのですね。
柿元:それに、経営トップが関心を持ってくれいて、当時は久米(豊)さんが社長でしたが、予算オーバーも何とかしてもらうといった応援があったことも大きいと思います。
CL:敢えてニスモとして分社化した理由はあるのでしょうか。
柿元:一つはモータースポーツには危険が伴うわけです。ドライバーが怪我をするなど非常に危険なことが起きる部署であるため、思い切ってやるためには、分社化をしてリスク管理をする意味がありました。もう一つは、モータースポーツ好きの方々、アフターマーケットに様々な部品を供給しやすくするという意味もありました。
CL:確かに部品によっては自動車メーカーとしては出しにくいものもありますよね。
柿元:分社化すればそれが可能になります。そして、プリンス、追浜、大森とバラバラだった日産のモータースポーツが、ニスモがあることによって徐々にまとまっていき、大きな目標として「24時間レース出場」が掲げられました。ル・マン用のエンジン開発は追浜でも別部隊が担当し、荻窪、村山の長であった桜井さんもル・マン計画を推進するために加わり、日産が全社一丸になっていました。
CL:1990年代半ばくらいまでは、社内にまだ「プリンスの人、日産の人」という雰囲気も残っていたと思うのですが、モータースポーツに至っては10年以上前にそんな意識はなくなっていたのですね。
柿元:それに、経営トップが関心を持ってくれいて、当時は久米(豊)さんが社長でしたが、予算オーバーも何とかしてもらうといった応援があったことも大きいと思います。