特集:新型リーフに見る日産EVのDNA
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他社を凌駕する「たま」の実力と電気自動車の終焉
東京電気自動車は、昭和23年(昭和48年)9月に前窓が2枚の平面ガラスの乗用車「たまセニア・EMS-49」、「たまジュニア・E4S-48」を発表した。未だ手加工も多かったが、パネル類、骨格類は一部プレスを併用している。この2モデルは昭和24年(昭和49年)に2ドアから4ドアに変更され(EMS-49-II、E4S-49-I)、待望の全鋼板製に切り替えられた。
東京電気自動車は、昭和23年(昭和48年)9月に前窓が2枚の平面ガラスの乗用車「たまセニア・EMS-49」、「たまジュニア・E4S-48」を発表した。未だ手加工も多かったが、パネル類、骨格類は一部プレスを併用している。この2モデルは昭和24年(昭和49年)に2ドアから4ドアに変更され(EMS-49-II、E4S-49-I)、待望の全鋼板製に切り替えられた。
東京電気自動車は、昭和23年(昭和48年)9月に前窓が2枚の平面ガラスの乗用車「たまセニア・EMS-49」、「たまジュニア・E4S-48」を発表した。未だ手加工も多かったが、パネル類、骨格類は一部プレスを併用している。この2モデルは昭和24年(昭和49年)に2ドアから4ドアに変更され(EMS-49-II、E4S-49-I)、待望の全鋼板製に切り替えられた。
E4S-49-II
E4S-49-II
E4S-49-II
E4S-48
E4S-48
E4S-48
しかし、戦後間もなくの日本の自動車は品質が悪く、箱根に行くにも部品を積んだトラックが追随しなければならないような状態であった。そこで、通産省は自動車の品質向上と不足気味の資材の割り当て方法として自動車の性能試験を行うことになった。昭和23年(1948年)3月、大阪府高槻市で第1回目となる電気自動車の性能試験が実施された。この試験で「たま」は13項目中12項目でトップの成績を収め、業界全体に衝撃を与えた。この好成績はガバナ付き電動機を開発した日立製作所、ガラスマットを利用した高性能蓄電池を開発した湯浅電池等、高い技術を有する会社の協力が得られたことと共に、蓄電池の容量を最大にするための予備充放電及び充電方法、駆動系の暖機運転等、研究者の実験研究された東京電気自動車の利用技術の成果でもあった。さらに第2回が同年9月に小田原で実施され、中型車「たまセニア」が一充電で231km走行を果たした。この2回にわたる性能試験の好成績により、昭和23年(1948年)10月に商工省より重要産業工場の指定を受け、東京電気自動車は電気自動車の専業製造会社として確固たる地位を占めるに至った。
しかし、戦後間もなくの日本の自動車は品質が悪く、箱根に行くにも部品を積んだトラックが追随しなければならないような状態であった。そこで、通産省は自動車の品質向上と不足気味の資材の割り当て方法として自動車の性能試験を行うことになった。昭和23年(1948年)3月、大阪府高槻市で第1回目となる電気自動車の性能試験が実施された。この試験で「たま」は13項目中12項目でトップの成績を収め、業界全体に衝撃を与えた。この好成績はガバナ付き電動機を開発した日立製作所、ガラスマットを利用した高性能蓄電池を開発した湯浅電池等、高い技術を有する会社の協力が得られたことと共に、蓄電池の容量を最大にするための予備充放電及び充電方法、駆動系の暖機運転等、研究者の実験研究された東京電気自動車の利用技術の成果でもあった。さらに第2回が同年9月に小田原で実施され、中型車「たまセニア」が一充電で231km走行を果たした。この2回にわたる性能試験の好成績により、昭和23年(1948年)10月に商工省より重要産業工場の指定を受け、東京電気自動車は電気自動車の専業製造会社として確固たる地位を占めるに至った。
しかし、戦後間もなくの日本の自動車は品質が悪く、箱根に行くにも部品を積んだトラックが追随しなければならないような状態であった。そこで、通産省は自動車の品質向上と不足気味の資材の割り当て方法として自動車の性能試験を行うことになった。昭和23年(1948年)3月、大阪府高槻市で第1回目となる電気自動車の性能試験が実施された。この試験で「たま」は13項目中12項目でトップの成績を収め、業界全体に衝撃を与えた。この好成績はガバナ付き電動機を開発した日立製作所、ガラスマットを利用した高性能蓄電池を開発した湯浅電池等、高い技術を有する会社の協力が得られたことと共に、蓄電池の容量を最大にするための予備充放電及び充電方法、駆動系の暖機運転等、研究者の実験研究された東京電気自動車の利用技術の成果でもあった。さらに第2回が同年9月に小田原で実施され、中型車「たまセニア」が一充電で231km走行を果たした。この2回にわたる性能試験の好成績により、昭和23年(1948年)10月に商工省より重要産業工場の指定を受け、東京電気自動車は電気自動車の専業製造会社として確固たる地位を占めるに至った。
第二回目の性能試験での様子(1948年9月)
第二回目の性能試験での様子(1948年9月)
第二回目の性能試験での様子(1948年9月)
東京電気自動車の開発メンバー
東京電気自動車の開発メンバー
東京電気自動車の開発メンバー
「たま」はプレミアムがつくほどの人気となり、電気自動車は東京、大阪、京都、名古屋を中心に主にタクシーとして使用された乗用車、そしてバス共に増加した。
昭和24年(1949年)度の通産省の自動車生産計画は、ガソリン小型車12000台、三輪車24000台、電気自動車3000台であった。しかし「たま」は月産30台程度であったため経営自体が苦しくなっていた。そこで、当時の試作工場長の義父である鈴木里一郎衆議院議員とブリッヂストンタイヤ社長の石橋正二郎氏に出資を仰ぎ、昭和24年(1949年)に府中から三鷹にある元正田飛行機の施設を買収して移転。社名も「東京電気自動車」から「たま電気自動車」に改称し、土地12000坪、建物4000坪、設備も大型プレス機1台をはじめ、機械工場も完成させ、設計部署に新入社員を採用するなど、ようやく工場らしくなった。
しかし、昭和25年(1950年)6月の朝鮮動乱によって鉛の価格が前年の5万円/トンから45万円/トンとなり、バッテリーも高値となったほか、米軍の占領政策の変化でガソリンが出回り始めたことで、昭和26年(1951年)6月には電気自動車は打ち切りとなった。
「たま」はプレミアムがつくほどの人気となり、電気自動車は東京、大阪、京都、名古屋を中心に主にタクシーとして使用された乗用車、そしてバス共に増加した。
昭和24年(1949年)度の通産省の自動車生産計画は、ガソリン小型車12000台、三輪車24000台、電気自動車3000台であった。しかし「たま」は月産30台程度であったため経営自体が苦しくなっていた。そこで、当時の試作工場長の義父である鈴木里一郎衆議院議員とブリッヂストンタイヤ社長の石橋正二郎氏に出資を仰ぎ、昭和24年(1949年)に府中から三鷹にある元正田飛行機の施設を買収して移転。社名も「東京電気自動車」から「たま電気自動車」に改称し、土地12000坪、建物4000坪、設備も大型プレス機1台をはじめ、機械工場も完成させ、設計部署に新入社員を採用するなど、ようやく工場らしくなった。
しかし、昭和25年(1950年)6月の朝鮮動乱によって鉛の価格が前年の5万円/トンから45万円/トンとなり、バッテリーも高値となったほか、米軍の占領政策の変化でガソリンが出回り始めたことで、昭和26年(1951年)6月には電気自動車は打ち切りとなった。
「たま」はプレミアムがつくほどの人気となり、電気自動車は東京、大阪、京都、名古屋を中心に主にタクシーとして使用された乗用車、そしてバス共に増加した。
昭和24年(1949年)度の通産省の自動車生産計画は、ガソリン小型車12000台、三輪車24000台、電気自動車3000台であった。しかし「たま」は月産30台程度であったため経営自体が苦しくなっていた。そこで、当時の試作工場長の義父である鈴木里一郎衆議院議員とブリッヂストンタイヤ社長の石橋正二郎氏に出資を仰ぎ、昭和24年(1949年)に府中から三鷹にある元正田飛行機の施設を買収して移転。社名も「東京電気自動車」から「たま電気自動車」に改称し、土地12000坪、建物4000坪、設備も大型プレス機1台をはじめ、機械工場も完成させ、設計部署に新入社員を採用するなど、ようやく工場らしくなった。
しかし、昭和25年(1950年)6月の朝鮮動乱によって鉛の価格が前年の5万円/トンから45万円/トンとなり、バッテリーも高値となったほか、米軍の占領政策の変化でガソリンが出回り始めたことで、昭和26年(1951年)6月には電気自動車は打ち切りとなった。
EMS-49-Iを府中工場でお披露目
EMS-49-Iを府中工場でお披露目
EMS-49-Iを府中工場でお披露目

